戻れない過去
「バレー、負けちゃったな」
「惜しかったなー」
「野球もな~」
「やっぱ難しいもんやなあ」
8月も終わる頃。
アテネオリンピックも終盤戦に入った夜、工藤邸で酒を飲む東西の名探偵。
今回のアテネは、かつてない程のメダルラッシュ。
でもやっぱり。
・・・・・金を取る選手もいれば、メダルまで届かない選手もいる。
「勝負は一瞬だからな」
「せやな。敵は『戦う相手』やなくて、『自分自身』や」
「さーてと、フロ入ってくる」
「・・・・なあ工藤」
新一も平次も、スポーツをやっているから知っている。
まあ新一の方は過去形になるが・・・・
どんなに練習しても、身体を鍛えても。
本番に何が起こるか解らないのが『勝負』の世界。
「ん?」
「また、やればええやん」
「・・・・何をだ」
「玉蹴り」
「タマケリ言うな。このチャンバラ野郎」
「どわっ!」
ソファを立ちながら新一はシャツを脱ぎ、目の前の男に投げた。
すると視界を塞がれバランスを崩す平次。
後ろから、転ぶ。
「何すんねん!」
「中途半端で出来るほど甘かねえって事、お前が一番知ってるだろ」
「せやから」
「うるさい。二度と言うな」
吐き捨てると新一はすたすたと風呂場へ向かう。
形の良い背中が涼しげに『追い掛けてくんな』と言っていたから、平次は『へいへい』と息を付いた。

・・・・・・最初は、探偵に必要な体力をつける為だった。
熱い湯が頬を伝う。
目を閉じた時に浮かぶ情景は、中学の頃に見た夕暮れの空。
一生懸命やってたさ。
朝から晩まで練習して、雨の日もボールを追い掛けまわして。
・・・・だからその時は気が付けなかったんだ。
決して『必要だから』だけじゃなく。
『どうして』続けていたのか、という事を。
「・・・・・・・こんなに好きだったなんてな」
やめなければ良かった。
高校に入っても、続けていれば良かった。
服部もそうしているように。
好きなものは、苦しくたって両立できるはずだったんだ――――――――――・・・・・
「っつー・・・・・・やっぱ右脚、響くな」
日常生活に支障は全くない。
ただ、激しい運動には耐えられない。
一度変化した骨と細胞。
そして再び急激に戻った新一の身体は、あちこちに後遺症を残していた。
中でも酷いのは、右脚と体力の消耗。
だから。
・・・・・もう二度と試合なんか出来ないし、シュートも打てない。
しょうがない。
どれもこれも、俺のせい。
自分でまいた種が原因でこうなった。
――――――――――・・・・・あの日、遊園地で奴らの後を追い掛けたのは、他ならぬ自分なのだから。

「そんなに駄目なんかなあ・・・・・」
テレビから流れるオリンピック情報。
それを視界に入れながら、平次は酒を飲み続けていた。
「・・・・・あんなに身体はしたがっとるのに」
サッカーの試合を観てる時。
新一の身体は、とにかく選手と同化していた。
選手がパスを出せばその方向へ脚が動き。
とにかく、身体全体で反応していた。
・・・・・・だから平次は試合より、新一を見ている方が楽しかった。
「まあ。俺もおんなしやけどな」
みんなそうかもしれない。
誰もが、自身をフィールドに立たせて見ている。
考えるよりも先に身体が反応して。
その表情は、本当に――――――――・・・・・・・・
「・・・・・・・っ・・・・」
その時平次は気付いた。
確かに新一は楽しそうだった。
一生懸命、応援していた。
でも。
・・・・・その瞳は哀しそうな色を浮かべていた。

「工藤」
「うわ!? な、何だよ??」
「いや。俺も汗かいたし」
「だったら俺が上がってから入ればいいだろ!」
「エエやん。今更恥ずかしがらんでも」
突然、風呂場の扉が開いた。
入り込んできた空気に新一が振り向くと、平次がいたのだ。
その表情は至って真面目。
だから新一も、冷静に返した。
「・・・・悪いけど、今そんな気分じゃねえ」
「俺もや」
「じゃあ何しに来た」
「そーゆーのナシで一緒に浴びたい気分になったんや」
「は?」
「さっきはスマン。よう考えもせんで言ってしもた」
新一の身体にふわりと巻き付いている泡。
それに視線を留めながら、平次はシャワーヘッドを取った。
・・・・・ゆっくり、目の前の身体を洗い流して行く。
変わらず平次の表情は硬いまま。
新一はそれを見上げながら、小さく微笑った。
「バーカ。らしくねえぞ」
「・・・・ホンマに、もうサッカー無理なんか?」
「ああ。脚がちょっとな」
言いながら今度は新一がシャワーヘッドを奪い取る。
そして、思いっきり平次の頭にお湯を掛けた。
前髪の間から覗く、僅かに伏せられた瞳。
何か言いたげなそれに再び新一は微笑う。
・・・・・・すると視界が塞がれ、生温い感触が口唇に触れて離れた。
「後悔しとるんか」
「したって過去には戻れない」
「・・・・」
「しねえよ。するかよ―――――・・・・・・じゃなきゃ、お前に逢えなかった」
「っ・・・・」
「確かにサッカーが出来なくなったのは悔しい。けど、あの事件がなければ・・・・お前とこんな関係にも、ならなかっただろ」
こうして触れ合える関係になったのも、身体を小さくされていた時間があったから。
共通の秘密事。
それがあったからこそ、解り合える事も多かった。
・・・・頭上で変わらずシャワーが、大きな音を立てている。
「工藤」
「もう離せ。これ以上浴びてたらのぼせる」
「・・・そやな」
自分よりも広い胸。
包まれている感覚が気持ち良くて、つい目を閉じてしまった新一。
・・・・・その腕を押し返す。
慣れてしまってはいけない。
この腕の温もりは、自分を安堵させる危険なもの。
・・・・・・・こんな弱い自分はお前に知られたくない。
「ちゃんと窓開けて、足マット干して来いよ」
「解っとるがな」
「ならいいけど」
だから新一は振り返らず出た。
背中を向けたまま、扉を閉めた。
・・・・深く息を付いても。
硝子の向こうのシャワーの音が、それを消してくれた。

過去には決して戻れない。
だからこそ、未来に繋がる『いま』がある。
お前に出逢えたあの時があったから。
・・・・・・・・俺は、今でもこうして笑っていられる。
