飲み終わった缶を捨てると、新一はトランクから上着を取り出した。





 もう12月。

 あの異常なほど暑かった夏が、何年も昔のように思えた。

















 新一は元々8月の終わりにロスへ行く予定だったが、それを繰り上げ独りで家に帰ったその日に成田空港へ向かった。

 両親は驚いていたが、詳しくは聞かずただ素直に息子に早く会えて喜んだ。





 暫くはのんびりとして。

 母親の買い物や料理に付き合ったり、芝居や音楽鑑賞にも付いていったりもした。



 久しぶりの父親は、家に居ると言っても書斎に篭りっきりなのが多かったが。

 ロス市警の知り合いの所に連れて行ってもらったり、定期的に招待されるパーティーにも一緒に行かせてもらって新一の好奇心を満たしてくれた。













 知らない事を知ることは、楽しい。

 自分の知らない自分を見つけるのは、面白い。







 今までずっとそうだった。

 そう思ってきた。























 ――――――――・・・・特別な感情を抱かなくとも、触れられれば反応するし声だって漏れるなんて事も、あの時初めて知った。





























 経験が無いなんて言ったら嘘になる。

 自慰なんて今時どこの誰だってやってるだろうし、それを別に恥ずかしいとは思わない。



 人間の身体の自然なメカニズムで。

 成長するに従って湧いてくる生理的欲求のひとつだ。































「・・・・・・けど」











 新一には、ひとつだけ解らない事があった。

































「――――――――・・・・・」



















 右手の人差し指が自然に口唇に触れる。

 相変わらず乾いているそれには、ひとつの感覚が残っていた。









 ・・・・・男の象徴を静めるだけならば必要が無かったはずの感覚。

































「どうしたってんだ俺・・・」













 深く息を付いて、歩き出す。

 行き交う人々をすり抜け、まだ雨の降り続く場所へと移動する。





 身体が熱かった。

 外気温が低い分、やたらと。





























From:服部平次
Sub:無題
――――――――――
会って話がしたい

  —–END—–































 メールの本文だけが、脳裏に鮮やかに焼き付いている。





























 あんな事されたのに・・・・・男としてのプライドを、粉々にされたのに。

 確かに怒りだけの感情しか無かったはずなのに。



















 ・・・・・・新一は月日が経つにつれ、自分の中に別の感情が生まれてきている事に戸惑っていた。



















明日に続く[03]










 ――――――――――――・・・・・やっぱ、けえへんか。























 平次は部屋で、携帯を見つめ呟く。



 時は、17時。

 冷たい雨が一日中続いていたこの日、平次は出かけている時も家に帰ってきてからも、神経が全て携帯へと注がれていた。



















 今日は工藤新一が日本へ帰国する日だと毛利蘭から聞いていた。

 だから、思い切って新一の携帯へとメールを送った。







 ・・・・・予想通りに、返事は来なかった。

























 自分は彼に酷い事をしてしまった。

 それは、日が経つにつれ重く圧し掛かり平次の心を悩ませた。







 ――――――・・・・・・『してしまった』という事実より、『してしまった原因』を後から自覚して。



























 あれから4ヶ月程過ぎ、後味の悪い別れ方をしてから一度も会ってなく。

 弁解の仕様も無い自分の取った行動は、どれだけ新一のプライドを傷つけたことだろう?















 気位が高くて。

 やたらと自信家で。





 ・・・・だけど口先だけじゃないと言うのは、誰もが認める所で。











 加えて、あの容姿は元女優だった母親から受け継がれたもので。

 女だけじゃなく、きっと男でさえ意のままにしてきたのが得意の微笑からいつも読み取れて。



























 ・・・・そんな新一を、認めながらもやっぱりどこか面白く思ってなかった自分がいた。

 それがあの行動を呼んだ。











 だから―――――――・・・・・本当は、気分がスカッとする筈だった。



























 本来ならば他人に見せる事の無い場面を見られたのだ。

 しかも、それは自分ではなく『他人の手』。























 それは新一にとって耐えがたい屈辱だった筈――――――――――――・・・・・・・・































 でも・・・・・





























 あの日、あの時・・・・





 ・・・・・平次は新一の口唇に惹きつけられた時から、歯車が狂い始めた。





































『ち・・・・きしょー・・・・っ・・・んっ・・・・・ちょ・・っ・・・ホントにもう・・・やめ・・・っ・・・・』

『・・・そろそろみたいやな』

『あ・・・・・・・っ・・・はっと・・・・り・・・』

『!!」

『――――――・・・・・っっっ・・!』





























 何度も。

 あれから平次は何度も何度も、あの時の新一を思い出した。





 ・・・・毎晩、風呂に入る度に嫌でも。



























 はっとり。





 そう自分の名を呼んだ、吐息混じりの掠れた甘い声を――――――――・・・・











































 平次は確かめたかった。

 

 嫌われても、2度と逢えなくなっても。

 どっちにしろこれ以上嫌われる事はないだろう。









 だから、もう1度だけ―――――――・・・・・・工藤新一と話がしたかった。





















 そうすれば解る。

 この気持ちが、嘘か真か。





























 ・・・・・彼が、自分を許す筈がないと解っていても、それでも。





































「―――――――・・・雨、そろそろ弱なってきたな」



















 平次は窓の外を見た。

 ぽつりぽつりと、粒は小さく硝子に打ち付けている・・・・・・





 そして意を決したように平次は立ち上がる。

 ブルゾンを着込み、財布の中身を確かめ部屋を出る。





















 ・・・・・そして目的地へと向かうべく駅へ急いだ。




































ひとくぎり





























「あれ・・・・・・」











 錦糸町駅。

 新一は、うとうとしていた所に同じ車両に乗り込んできたある人物に目を留める。

















 ・・・・あれって・・・・・・















 下り路線に比べれば空いている車内。

 その人物も、すぐ新一に気が付く。













「高木さん?」

「あれ、工藤君?」

「――――――・・・・私服だから一瞬解りませんでしたよ。今日はオフなんですね」

「そーなんだよ。同じ課の奴の引越し手伝わされて・・・・って、それより、いつ帰って来たんだい?」

「今です」

「随分長かったね。勉強かなんか?」

「まあ、そんなトコですね」













 高木ワタル。

 警視庁捜査一課の刑事で、新一の良き理解者であり兄のような存在の彼。



 2人がけの席。

 その新一の隣が空いていたから、高木はそこへ腰を降ろした。



















 ・・・・・・ふと。



 高木は新一の雰囲気に気付く。



















「寒い?」

「・・・・いえ。どうしてですか」

「いや、身体硬くしてる風に見えるから」

「そうですか?」















 新一は少し驚く。

 そう言えば、この人は変な所で勘が鋭かった。



 すると次に高木は、予想もしてなかった事を言ってきた。













「工藤君さ、帰って来たばっかりだったらご飯とか用意してないだろ。うちに寄ってかないかい?」

「え?」

「実はさ~。北海道の親戚からラムを沢山もらったんだけど、ひとりじゃ食べきれないんだよ。良かったらどうかな」

「・・・・良いんですか? 俺なんか誘って」









 意味ありげの新一の言葉と視線に、高木は明らかに焦った。

 そして僅かに赤くなる。







「―――――――・・・・・なる程。佐藤さん誘ったけど、断られたんですか」

「な、何で・・・・」

「解りやすいですね~相変わらず」

「ち、ちちち違うよ」

「ご馳走になります。俺、好きなんですラム肉」













 新一は微笑う。

 その上目遣いの極上の視線に、高木は返す言葉も出ない。









 ・・・・少し伸びた髪の毛から覗く瞳に自分が映っているのが解る程の距離。

 やっぱり綺麗な子だなあと高木は再確認し、自分も微笑い返した。

























ひとくぎり































 相変わらずの人混みだと思った。



 東京駅。

 平次は改札を抜けると息を付く。



















 ―――――――――――・・・・・・さて、と。





















 そして携帯を取り出すが、ボタンを押そうとして止める。

 液晶表示が出る今、警戒されて出ないのが目に見えるからだ。





 だから真っ直ぐ平次は山手線乗り場へ向かった。









 ・・・・向かおうとした、その時。























「―――――――――・・・・・・工藤・・・・・」



























 行き交う人波の向こう側。



 ・・・・・そこに、間違う筈のない人物を見つけた。































 平次は、反射的に柱の影に隠れる。

 突然の『工藤新一』に心臓に衝撃が走ったからだ。





 そうして再び身体を戻すと、その新一は誰かと話しながら後ろを歩いて行った。

























 ―――――――・・・・・あれ・・・・高木はん?



















 東京の刑事で、新一と共に現場で良く見かけていたのを思い出す。





 新一より頭ひとつも大きい彼。

 その差から生まれている上目遣いを目の当たりにして、むしょうに胸が苦しくなった事に平次は驚いた。



















 ・・・・なんなんや・・・・・これ・・・・・・



 何でこんな――――――――――・・・・・・腹立つんや・・・・・・・?



























 自嘲気味に微笑う平次。

 過ぎ去った背中から目を逸らすと、柱に寄りかかった。



 そうして目を閉じる。





















 ・・・・・・・・すると、また胸が苦しくなってきて再び息を付いた。
































ひとくぎり





























「へ~ 結構キレイにしてるんですね」

「あんまり物を置かないからかな」

「俺と一緒だ」







 狭くも広くも無い部屋。

 まあ、男の一人暮らしの典型と言える感じがして新一は微笑った。



 きょろきょろと見回す。







「工藤君は家の掃除とか大変そうだね。俺、手伝おうか?」

「ええ?」

「何ヶ月も空けてたんなら埃とか凄いよ多分」

「・・・・そーですよね。家帰ったら、寝るトコだけは何とかしないとなー」









 うげーという顔をする新一に、今度は高木が笑う。









「明日は予定あるの?」

「ん~ 特には」

「じゃあ今日はこのまま泊まってかないかい? 明日、車で一緒に行って掃除手伝うよ」

「そ、そんな悪いですよ。2日も休めないんじゃないですか?」

「何遠慮してんの。大丈夫」











 はい、とコンロを高木は渡す。

 その屈託の無い笑みに―――――――・・・・新一は断れなくなってしまった。































 ・・・・高木は茶碗を並べる新一を見ていた。

 そうして、数ヶ月前にとある人物から言われていた事を思い出す。





 あれは確か、残暑の厳しい9月頃――――――――――・・・・・











『ちょ、ちょおすんません、高木刑事!』

『・・・・・あれ、服部君?』

『工藤の奴、まだ戻ってきてへんてホンマですか?』

『―――――・・・・そうみたいだよ。僕も警部も9月の始めには帰国するって聞いてたんだけど』











 それは服部平次。

 大阪府警本部長の息子で、剣道の腕がめちゃくちゃ立つという事で警視庁でも有名な青年だった。







 何かあったのだろうか。

 父親である本部長が来ていると言う話は確か無かった筈だと高木は思い返す。



 ・・・・警察官でもない彼が、こうして堂々と署内を歩くという事は普通無いことだ。



 そしてそれよりも高木はひとつ疑問を持った。











『というか・・・・・服部君は連絡取ってないのかい?』

『え?』

『喧嘩したまんまって顔してるよ』

『ま・・・・まあそんな様なもんです』

『だと思ったよ。じゃないと知らない筈ないよね―――――――・・・・ちょっと体調崩してるみたいなんだ。それで延びてるらしいよ』













 署内の休憩所。

 高木は自販機で紙コップの珈琲を買うと、それを平次に渡した。



 『あ、ども・・・・』と会釈して受け取る彼は、出会った頃に比べて体格は大人びて来たが、やっぱり何処となく幼さが見えて高木は少し微笑った。











『高木はん、お願いがあるんやけど』

『ん?』

『高木刑事としてやなくて、高木ワタルっちゅー人間に頼みたいんや』

『・・・・・何かな』











 平次は真剣な表情をしていた。

 だから、高木も茶化す事無く真剣に次の言葉を待った。





 ・・・・褐色の肌から光る目が真っ直ぐに向いている。



















『あいつ帰ってきたら――――――――・・・・・・なるべくそばで見とって欲しいんや』

















 高木は暫く返事が返せなかった。

 それは、その言葉の意味が解らなかったからだ。



















「意味不明やと思うんは当然や。けど多分、そのうち解る」

「―――――・・・・工藤君と何かあったのかい?」















 平次はただ力無く微笑う。

 そして、『ごちそうさんでした』と軽く頭を下げその場を去って行った。













 高木はその背中を消えるまで見ていた。

 いつもの元気な彼とは雰囲気が違い、何だか少し心配だった。



 でも、その後直ぐに事件に借り出され、現場検証やら聞き込みの毎日に戻っていくにつれ・・・・日々の忙しさに、いつしかそんなやりとりが有った事も忘れていた。























 ――――――――・・・・こうして今日、工藤新一とバッタリ会う時まで。



























「高木さんてば」

「・・・・え?」

「どーしたんです、ボーっとして」

「い、いやごめん」

「酒とか飲みますか? 冷蔵庫ん中は何も見えないんで・・・・・俺、ちょっと買ってきますよ」











 すっかり食事の準備を整えたテーブル。

 目に付くところを見ても見つからないアルコールに、新一が財布を取り出し高木に問い掛けた。









「あ―――――・・・そうか、そう言えば帰りに買って来ようと思って忘れてたな」

「日本酒で良いですか?」

「いいよ。俺が行って来るから工藤君は待ってて」

「俺が買いますってば! 食事やらご馳走になるのに」

「この辺歩いたことないだろ? 酒売ってる所、結構遠いから」

「・・・で、でも」











 何故か戸惑っている新一。



 いつも事件の現場での張り詰めた表情しか見たことの無い高木には・・・・・・・もうさっきから驚く新一を見てばっかりで、つい微笑ってしまった。











「遠慮しなくて良いよ。どっちかっていうと、普段はこっちが世話になりっぱなしなんだから」

「じゃあ何で笑ってるんですか・・・・?」

「工藤君て、結構、アレだね」

「は?」

「――――――・・・・・ま、とにかく行って来るから。テレビでも見ながら待っててよ」

「高木さん? ちょっと、アレって何ですか?」













 結局それには答えず、高木はマフラーだけ首に巻くと財布と鍵を持って部屋を出た。



 ・・・・外は夜になって寒さを増したようだ。











 歩きながら、高木は思い出し笑いする。

 周りに人が居ないのは確認済みで。























 ―――――――――・・・・・・イメージ随分違うんだもんなあ・・・・・・























 それは工藤新一の事。

 日本警察の救世主と言われ、それが誇張でも何でもない事を実証している年下の名探偵の事・・・・



















 だからつい、『可愛い』とか言いそうになっちゃったよ――――――――・・・・・・



















 高木は決してその気は無い。

 好きな人も、ちゃんといる。



 この感情は単なる『工藤新一という人間』に対する素直な『感想』なのだ。















 確かに容姿は非の打ち所など無く。

 前から羨ましい限りだったけれど。



 あんな面を見せられたら、きっと署内に数多くいる彼のファンなどは余計に熱を上げるに違いない。

























「うっわ~しかし寒いなあ・・・・・・・今雨降ったら凍るかな」















 高木は歩く足を早くする。

 そうして、24時間営業のアルコールの置いてあるコンビニへと入って行った。


























ひとくぎり





























「やっぱ高木さんは――――――――・・・・かなり緊張すんなあ」











 主の居なくなった部屋。

 新一は居間のソファにも座らず、壁際に寄りかかって蹲っていた。



 ・・・・暖房は充分効いているのに身体を縮めて。

















「・・・・・まだ震えてやがる」















 手のひらを見る。

 微かに震える自分の指が、視界に映った。



 軽く息を付く。

















 ―――――――・・・・・・新一は『あの日』以来、『男』に対して異常なまでの警戒心を抱くようになってしまった。



























 触れられるのは勿論、そばに、隣に来られると全身に緊張が走った。

 時には息が止まりそうな状態にもなった。





 ・・・・全く関係ない、知り合いでも無い人間ならその症状は軽く、親しければ親しい人間ほど強く激しい動悸が起こる。


 でも身内は平気で。







 つまり新一にとって『身近で信頼している同性の他人』が駄目だった。





























 全ては――――――――・・・・あの服部平次が原因。

























 友達だと思っていた。

 信頼していた。







 考え方や性格、価値観も違うけど・・・・・・・・根本は同じだと感じていた唯一の存在だったのに。



























 ・・・・信用するから裏切られる。


 期待するから、失望する・・・・・・・・





























 もう誰も好きにならない。







 もう、あいつは友達でも何でも―――――――――・・・・・・・・



































「・・・・・・・・え・・・・・・・・・?」

































 今、自分は何を思った?


 好き? 好きだったのか? 俺は、服部を・・・・・・・?





















 ・・・・・そうだ。確かに『好き』だった。





 ただそれは普通の友人としての部類の話で。

 俺と話も合うし、会話にも付いてこれるし、そんな奴は今まで俺の周りには居なかったし・・・・・・・





 確かに少し鬱陶しい時もあったけど。

 それを上回る程にあいつはいい奴だったから・・・・・・・・



























 だからこそ信じられなかった。

 だから、俺はショックだったんだ。



















 ・・・・・東京と大阪に離れてても、俺はあいつの事を心の底では信用しきってたから。































「はっとり・・・・・・・」

































 口に出してみるその響き。

 無性に懐かしい口の動き。



















 ・・・・・・・・・お前、今何してんだ?

































 逢いたくない筈なのに、逢いたいと思った。

 あの夏の太陽の様な笑顔が見たいと思った。



 そして。































『工藤!』



































 ――――――――・・・・あの甘ったるい声で、また自分の名を呼んで欲しいと思った。